グイノ神父の説教



2024-2025年

C 年

待降節の主日

主の誕生・クリスマス

四旬節の主日


   

待降節第1主日
待降節第2主日

待降節第3主日
待降節第4主日
主のご降誕の祭日



      待降節第1主日  C年  2024121日  グイノ・ジェラール神父

      エレミヤ33,14-16     1テサロニケ3,12-42    ルカ21,25-36

 預言者エレミヤは、メシアの誕生がすべての人にとって幸福の源になると宣言しました。出産はいつもあふれる喜びの泉です。イエスの誕生は世界を変え、永遠の幸福への道を開きました。聖パウロは、この幸福は相互の愛と神の前にとがめのない生き方の上に築かれると述べています。さらに、イエスは私たちに用心深く祈るよう勧めています。これこそが待降節が私たちに求めていることです。それは、クリスマスの喜びが私たちの心の中で輝き、神が預言者エレミヤを通して約束された幸福を味わうことができるようにるためです。

 イエスが誕生して以来、そしてそのずっと前から、戦争、飢餓、伝染病、自然災害が世界繰り返し襲いかかってきました。イエスは、「人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう」と語られましたが、イエスは特に私たちに、希望を失わず、自信を持ち続けるように勧めています。私たちの周りにあるものすべてが転覆し、崩壊しても怖くないということがあり得るでしょうか。しかしイエスは、しっかりと立ち、頭を上げるようにと求めています。周囲の不幸に目を向け続けるのではなく、その不幸のただ中にしっかりと立って、私たちは神に目を向けなければなりません。この態度は、私たちをキリストの証人とする信仰の姿勢です。

 
不幸そのものの真っ只中にいても、警戒を怠らず、祈り続けて目を神に向けることは、信仰と希望の証しです。私たちの態度を見て、人々は間違いなく、私たちが愚かであるか、無頓着であると考えるでしょう。しかし、私たちはこのキリスト教的な態度が私たちの心に神の平安と試練における勇気を注いでくれることを知っています。さらに、聖パウロが勧める相互愛を加えるなら、私たちの証しは、私たちを見ている人々をも神に立ち返るように招くでしょう。

 キリストは世の終わりまで私たちと共におられるので、私たちは何も恐れる必要はありません。むしろイエスにさらに近づき、イエスが与えてくださる安全さと深い平和を味わうことができます。この待降節の期間は、私たちがこれを行うことができるように特別に私たちに提供されています。毎週日曜日、私たちはまさに主にもう少し根を張るために主に会いに来ます。ここ、この教会で、イエスは私たちがとがめられることなく毎日を生きるために、そして永遠の愛で愛することを学ぶために必要な愛を私たちに与えてくださいます。

 今日の福音は怖い内容に思えるかもしれませんが、本当は良い知らせです。福音が描く世界の終わりもまた良い知らせです。大小を問わず人間が作り出す世界の破壊とは決して似ていません。

 今日の福音は、大きな希望をもたらします。神は全人類を救うために来られ、また来られようとしていると教えています。だからこそ、永遠の幸福の源である神からの救いを歓迎するために私たちは立ち続けなければなりません。この待降節は、私たちが目覚めて、警戒を怠らず、常に祈り、すべての人に「熱烈な愛」を示すのに役立ちます、アーメン。

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     待降節第2主日  C 年  2024128日  グイノ・ジェラール神父

       バルク 5,1-9     フィリピ 1,4-68-11     ルカ 3,1-6

 預言者バルクは、神はご自身の栄光、慈悲、正義に照らして、私たちを喜びで満たしたいと願っておられると断言しています。このような理由から、聖パウロは私たちに、自分の信仰生活にとって何が最も重要かを見極める明白な心を持つように求めています。洗礼者聖ヨハネはそれを聞きたい人々に、バルクの預言を繰り返します。回心するという条件によって「すべての人は神の救いを見る」と。

 回心するのは簡単なことではありません。自分の欲望が神に向かうのか、それとも神から背を向けるのかを識別できると誰が主張できるでしょうか。自分の行動が善に向かうのか悪に向かうのかをどうやって知るのでしょうか。神に向かう私たちの歩みが、秩序のない欲望によって妨げられないように、私たちは皆、識別の恵みを必要としています。ある詩編は私たちにこのことについて考えるように勧めています。「主よ、わたしの願いはすべてあなたの御前にあります」(参照:詩編38, 10)。この聖句は、自分の願いを自分自身のうちではなく、むしろ神のうちに置くように勧めています。

これは謙遜さの最初のステップであり、この謙遜は道を平らにし、丘を低くし、曲がっているものをまっすぐにします。キリスト者は、自分自身を魅力ある者として自分を中心に生きるのでなく、神の臨在の前で生きる人でなければなりません。私たち自身の心をはっきりと見るためには、神の臨在の中で日々生きることが極めて重要です。私たちが好きなことをするため言い訳よりも、私たちの反応や恐怖、抵抗、欲望は、多くのことを私たちに教えてくれます。自分の意志への執着を特徴づける「心の固さ」を自分自身の中に認識したとき、神に立ち返るべき時が来ていると見分けましょう。


 このように、識別力によって私たちは自分自身に目を開き、回心することができます。謙遜さは真実であるため、自己認識は謙遜さの基礎です。ギリシャの哲学者ソクラテスは、聖パウロのずっと前にこのことを発見していました。ソクラテスは「汝自身を知れ」とよく語っていました。彼にとって、自己認識は知恵にとって不可欠です。なぜなら、私たちは自分自身の限界や強み、弱みを理解することによってのみ、高潔で倫理的でバランスの取れた人生を送ることができるからです。逆に、自己認識の欠如は間違いや誤解を招きます。

 詩編の別の箇所も、私たちが回心するために役立ちます。「お前はこのようなことをしている。わたしが黙していると思うのか(参照:詩編5021)と神は言われます。私たちは「神の臨在の前で生きるために」キリスト者になったことを忘れがちです。神は、それを決して忘れません。回心への道は、私たちがご自身に立ち返るのを神は待っておられます。私たちへの愛に満ちた神のこの沈黙は、ある日、すべてを捨ててイエスに従うことができなかった金持ちの青年に注がれたイエスの愛のまなざしの中で具体化されていました。


 ですから、今日、謙遜になって、私たちの中に組み込まれている神の拒否を認識しましょう。自分の過ちと、愛することや赦すことを拒んできたことを認めることに同意しましょう。そして、赦しの秘跡で神の限りのない慈しみと優しさ、喜びをすべて受け取ることを謙遜に受け入れましょう。神は常に沈黙のうちに、疲れることなく私たちを待っておられるということを認識しましょう。なぜなら、神はまず私たち愛してくださった方だからです。アーメン

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    待降節第3主日  C年  20241215日   グイノ・ジェラール神父

         ゼファニヤ3,14-18   フィリピ 4,4-7   ルカ 3,10-18

 待降節の季節は、イエスの誕生記念日と終末に栄光に包まれて再び来られるイエスの到来に向けて私たちを準備し整える時期です。この時期は、回心の時期であると同時に、喜びと希望の時期でもあります。イエスが非常に近くにいて、私たちの中にもおられることを知って大いに喜びましょう。

 エディット・ピアフの「愛の賛歌」がよく言っているように、「青空が頭上に落ちてきても、大地が崩れても、気にしない」全く問題にならない、なぜなら、イエスは私たちを愛していて、私たちを救いに来てくださるからです。そうです、たとえ私たちの夢や望みが私たちを失望させようとも、たとえ健康や友人が私たちを裏切ろうとも、神の愛は私たちを守り、また、私たちをますます神の方へ引き寄せます。神の愛は私たちに真の平和を与えます。この平和は私たちの想像をはるかに超えている、と聖パウロはフィリピの教会への手紙に保証しています。すべてがうまくいかなくなった時に、パニック状態に陥ることがないように、この平和によって私たちの心と考えはキリストのうちに守られます。

 人生の試練に直面しても、私たちの信仰が揺らがないように、イエスは、愛によって私たちに平和を与えてくださいました。したがって、私たちはイエスを信頼しなければなりません。すべてが上手くいかない時、私たちのコントロールを超えてしまう、私たちはこの平和に頼って、ためらわずイエスに向かうべきです。預言者ゼファヤは、かなり前から私たちに警告しました。 「恐れるな、お前の主なる神はお前のただ中におられます。主はお前のゆえに喜び楽しみ、愛によってお前を新たにします」と。

 洗礼者ヨハネは、私たちが持っているものを分かち合うように勧めています。パンや衣服など相互扶助と同じように、信仰の光、神の平和、希望の喜びも、人々と分かち合うのに役立つものです。イエスに倣って、私たちも、愛する人の死によって悲しみ、孤独に感じている人々に近づきましょう。神が私たちに残してくださった平和を苦しんでいる人々にもたらしましょう。 それは主の道を整える一つの方法であり、丘を平らにし、曲がった道をまっすぐにする大切な方法です。


 クリスマスをお祝いするために、私たちまず自分自身と周りの人たち全員を喜びの衣で着飾る必要があります。人を赦す時、心を落ち着かせて傷つける言葉を言わないよう努める時、私たちは喜びに満たされます。求められたことを忠実に達成し、主を喜ばせようと日々努力する時、私たちは喜びの衣を身にまとい、平和の泉となります。

 ですから、兄弟姉妹の皆さん、神が私たちを救うために来られるのですから、恐れることなく主にあって喜び、主の平和の泉となろうではありませんか。アーメン。

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        待降節第4主日  C年 20241222日   グイノ・ジェラール神父

 
         ミカ 5,1-4   ヘブライ10,5-10    ルカ1,39-45
 預言者ミカは私たちにメシアの誕生の場所を示してくれました。このメシアは宇宙万物を導く羊飼いとなるでしょう。こうしてイスラエルの最も小さな村から宇宙の王が誕生します。これこそが神の考え方であり物事のやり方です。

 ヘブライ人への手紙を読むと、イエスが自分の意志を行うためではなく、父なる神の意志を忠実に実現するために生まれたことを思い出します。この従順は世界の聖化の源となります。神が人となったのは、私たちを救うためだけではなく、私たちを聖化するためでもあります。

聖霊に満たされたエリザベトは、救い主の母に出会って喜びの声をあげます。彼女はまた、自分の中にすでに宿っている子供を満たしている神秘的な喜びを表します。この喜びは、初めて、クリスマスの夜にベツレヘムの羊飼いたちに告げられ、そして福音の宣言を通じて徐々に広がり、最後的に宇宙万物に浸透していきます。

神は私たちの間に送る御子の誕生の準備のために多くの時間とエネルギーを費やしました。神はイエスの誕生の場所と時間を慎重に選び、イエスを守り育てるためにマリアとヨセフを選びました。神は、全人類を救うイエスを私たちに与えるために、困難な時期と貧しく不安定な手段を意図的に選ばれました。これは驚くべきことかもしれませんが、神は常に弱く、小さく、軽蔑されているものを用いて、ご自分の力を現されます。マリアは賛美の歌の中でそれをうまく表現しています。「神は、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」(参照:ルカ1, 52-53)と。

クリスマスが他の休日と同じようにならないように、私たちは主の誕生に宿る神秘を覚えておかなければなりません。マリアがエリサベトを訪ねたように、神は私たちを喜びで満たすために私たちを訪ねて来られます。クリスマスの喜びは、人を救い、聖化する普遍的な喜びであり、クリスマスが必要ないとは誰も言えません。もし誰かがそう言うなら、その人は神の永遠の愛を理解していないからです。クリスマスの神秘を、もはや信じなくなったキリスト者は、むなしい金持ちになり、王座から放り出された権力者のような者です。神から受けるべきめぐみと聖霊の力を無視するからです。

「信じる人は幸いです」とエリサベトはマリアを歓迎しながら宣言しました。「あなたの信仰があなたを救ったのです」とイエスは癒す人たちによく繰り返します。息子の癒しを願うこの父親のように、私たちも遠慮なく「主よ、私は信じますが、信仰のないわたしを助けてください」(参照:マルコ924)と叫びましょう。この願いこそは、クリスマスの恵みです。習慣に流されて無関心に陥らないように、私たちは皆この恵みを必要としています。信仰に伴う喜びと希望を私たちに与えて、信仰を強めてくださるように神に願いましょう。また、受けた洗礼の恵みによって、私たちにイエスを知らせ、私たちをイエスと永遠に結び付けてくださった神に感謝することを決して忘れないようにしましょう。

御子イエスの誕生が、私たち皆に、神の喜びと聖霊の力に満ちた生き生きとした信仰を与えてくださるように、聖母マリアにも祈りましょう、アーメン

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       主のご降誕  C年  20241224日   グイノ・ジェラール神父

             イザヤ9,1-6     テトス 2,11-14      ルカ 2,1-14

 ベツレヘムの羊飼いたちにクリスマスイブに何をしたか尋ねると、きっとこう答えるでしょう。

 「その夜、私たちは広い野原で数頭の羊の近くで休んでいました。突然、天から天使たちが現れ、私たちに生まれたばかりの子どもを探すように言いました。彼らはその子が、神が約束した救い主だと教えたので、羊の群れをそこに残して、急いでわたしたちはベツレヘムの村へ向かいました。その子の生まれた正確な場所が全く分からなかったので、私たちは馬小屋で生まれたばかりの子どもを見つけるまでに、眠っている村の人々を起こして質問し、家々を訪問しなければなりませんでした。馬小屋で生まれたばかりの子どもを見つけるまで、私たちは村の人々から冷たくあしらわれました。

 ようやく見つけた幼子は、天使たちが言ったように、布に包まれ、両親に囲まれて飼い葉桶に横たわっていました。私たちは黙って彼をじっと見つめましたが、何も言わずに、心の中で神を讃えながら、羊の群れの元に戻りました。その理由をどう説明したらいいのか解りませんが、確かに私たちの心は喜びと希望で燃えていました。

さらに羊飼いたちに質問してみると、次のようなことも教えてくれます。「実際のところ、その時、私たちは誰を見ればいいのか分かりませんでした。生まれたばかりの子どもか、とても美しいその母親か、それとも二人を見守っている謙虚で思慮深い男性なのか。実際は、あちこちで侮辱され、私たちは皆、子どもの誕生にふさわしい場所をすぐに見つけられなかったことに少し腹を立てていましたが、この男性は私たちが来ることを知っていたかのように外で私たちを待っていて、礼儀正しく丁寧に私たちを歓迎してくれました。

 この家族も、ローマの住民登録のために遠くから来た他の多くの人々と同様に、疲労で疲れ果てているように見えました。しかし、この家族は尊敬を呼び起こし、神を賛美したくなる神秘的な雰囲気を放っていました。動物用のわらの上に横たわった子どもは、顔を母親の方に向け続け、母親に微笑んでいるようでした。幼子の母親は驚いた様子で私たちを見つめました。彼女はどこか別の場所からやって来たかのような平安と深い喜びを味わっているように私たちには見えました。出産にはあまり適さないこの場所で、何かが私たちを包み込み、少しずつ心に浸透していく存在のようなものを感じたので、私たちは沈黙していました。

 兄弟姉妹の皆さん、主の偉大な業はいつも沈黙の中で行われます。神だけがその証人であり、マリアのようにすべてを心に留め、思いめぐらし、黙想することによって神の偉大な業を見ることができます。人生のあらゆる出来事を沈黙で囲むことによって、マリアは神の臨在のうちに留まり、聖霊が彼女の中で働き続けることができました。私たちも、このように生きるために招かれています。洗礼を受けた私たちは神の神殿であり、肉となった神の言葉であるイエスが私たちの内に宿られるからです。これがクリスマスの輝かしい神秘です。ですから、私たちは沈黙の中で神に感謝し、礼拝し、クリスマスの喜びと平和を深く味わいましょう。アーメン。

                                          


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